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「ゲーメスト杯」の誕生と消滅 ~対戦格闘ゲーム大会を作った男、猿渡雅史~ <前編>

いまやすっかりeSports化した対戦格闘ゲーム大会だが、こうした大会はいつから始まったのだろうか。その源流を辿っていくと、1991年にリリースされたアーケード版『ストリートファイターII』(以降『ストII』)の大会に行き着く。この大会はゲームセンター専門誌ゲーメストが主催し、"ゲーメスト杯"と呼ばれるゲーム大会は1998年まで続いた。

この大会はいかに始まり、どのように運営されていたのか。そしてゲーメスト休刊後、アルカディアが中心となって開催された"闘劇"はどこへ向かっていたのか。
当時、大会のプロデューサーとして現場を取り仕切っていた猿渡雅史氏に話を聞いた。


512人によるトーナメントを実施した『ストII』大会

――まず最初のゲーメスト杯ともいうべき『ストII』大会をやることになった経緯を教えてください。このとき猿渡さんは月刊ゲーメストの編集として働いていたんですよね?

猿渡:ムックを作ったり本誌のゲーム記事を担当したりしてました。そんなとき、1990年末から1991年にかけて、カプコンさんから『ストリートファイターII』という新作が出るということで、遊ばせてもらったんですが……これがもうメチャクチャ面白いわけですよ。ライターも編集もみんな興奮気味に「これはすごい!」と。

初めてのタイプのゲームだったので、ゲーメストとしてどのように『ストII』を盛り上げていくか、カプコンさんと相談しながら話を進めていくうちに、「ゲーム大会をやりましょう」という話になりました。『ストII』はとにかく対戦が圧倒的に面白かったのですが、当時は対戦台(2つの筐体を背中合わせにつなげたようなタイプ)がまだなくて、1つの筐体で隣同士に座らないと対戦ができなかったんです。それだと友だちと一緒にちょっと遊ぶ程度かな、と。もっといろんなたくさんの対戦を楽しんでほしいということもあり、大会を企画することにしたんです。

ゲーメストの記事も、いままでのゲームと同じようにCPU攻略やってハイスコアを狙う記事をやって……という展開ではなく、対戦が盛り上がるような記事を心がけました。大会を行うことで、それに向けた記事をゲーメストで連載するようにしたんです。

『ストII』がリリースされたのは1991年3月だったのですが、4月にはもう具体的に動いていたと思います。8月にはもう大会をやっていましたしね。場所は池袋のサンシャインシティ展示ホールで行いました。参加人数512人によるトーナメント(シングルイリミネーション)です。AからHまでの8ブロックにわけて、まずはブロックで64人トーナメントをやります。これは全部同時並行でやって、各ブロック勝者8人そろったところでステージ上で決勝トーナメントを1試合ずつやっていく、というスタイルでしたね。これは以降のゲーメスト杯もずっと踏襲していたと思います。

――いきなり512人だったんですね。

猿渡:このくらいはいけるって気がしたんですよ。最初は200人くらいの会場を探してたんだけど、「もっと大きな大会にできるはず!」とカプコンも編集部も妙な確信があって。応募方法は、ゲーメスト本誌の販売促進も兼ねて綴じ込みハガキによる抽選でした。どんなに実力があってもこの抽選で落ちるケースもあります。1回目の『ストII』のときは1000通以上の応募があったと記憶してますね。それこそ全国から応募がありました。

――全国から人を集めてのゲーム大会、っていうのはそれまであったのでしょうか?

猿渡:いろいろ調べてみたんですが、1970年代後半の『スペースインベーダー』時代に名古屋のゲームセンターで大会を行う告知記事を、アミューズメント施設向けの業界紙で確認しました。その大会でいちばん高い点数を出した人が優勝、っていう。ただこれは全国大会というよりは、その地域で来場できる人、というものだったと思います。家庭用ゲーム機だとハドソン(現KONAMI)がやっていたシューティングゲームの全国キャラバンとか。アーケードゲームでこれだけの規模の大会は『ストII』が初めてだったんじゃないですかね。

▲新声社から発行されていたアーケードゲーム専門雑誌「ゲーメスト」。1986年創刊。1994年に月刊誌から月2回刊行誌(毎月15日と30日)になる

ゲーム大会の基本的な仕組みは最初からできあがっていた

――最初の『ストII』大会から、対戦中の映像をスクリーンに映し出していましたよね? 今のゲームなら何らかの外部出力は当たり前ですけど、この時代の基板はそのあたりも難しかったのでは?

猿渡:当時のライターでハードに詳しい人がいて、ゲーム基板からビデオ出力するためのコンバーターを作ってくれていたんです。それは普通に編集部で使っていて、研究用にビデオ録画するために使っていたんですが、そのコンバーターを大会で使いました。数が足らなかったから急遽増産してもらったり……。

――実況も最初からやってましたよね?

猿渡:やってました。今の時代の実況のようにずっとしゃべりっぱなしというスタイルではないですけどね。自分が実況をやって、石井ぜんじさん(ゲーメスト編集長)に解説をやってもらうというスタイルで、ポイントごとに「今のはどうですか、ぜんじさん!?」って振る感じでした。

そういう意味ではトーナメントのスタイルや実況を入れてという部分も含めて、いまの対戦格闘ゲーム大会のスタイルはほぼゲーメスト杯初期段階でできあがっていたと思います。

――1991年に『ストII』、1992年に『ストリートファイターIIダッシュ』(以下『ストIIダッシュ』)と大会をやった後、1993年にはSNKの『餓狼伝説2』と『餓狼伝説SPECIAL』の大会を実施しました。

猿渡:SNKとがっつりタッグを組んでやった大会でした。ゲームを見せてもらった段階で、すぐにムック(攻略本)と大会をやりましょう、っていう話をしました。

そうそう、SNKのゲーム大会ではシリーズ最新作の映像を大会で初公開する、というのもやりました。『餓狼伝説2』大会のときに『餓狼伝説SPECIAL』の映像を、『サムライスピリッツ』大会のときに『真サムライスピリッツ』の映像を世界初公開したのですが、「おおおおおおおっ!」と、地響きがするほどのどよめきが起こりました。

――生々しい話ですが、収益構造はどうなっていたんでしょう? 参加者からお金をとっていたわけではないですよね?

猿渡:参加者からは「応募ハガキのためにゲーメストを買う」くらいです。ゲーメスト杯は、メーカーとゲーメストが一緒になってそのゲームタイトルを盛り上げる、というイメージで実施していました。ゲーメストとしてはそのゲームが盛り上がることで本誌やムックが売れてくれれば万々歳、メーカーさんはゲームの人気が出れば嬉しいわけだし。大会開催に合わせてそのゲームのグッズを大会会場で先行販売したりもしましたが、それでドカーンと儲けようというアレでもなかったですね。

具体的なお金のことは詳しくは言えないけど、感覚的にはゲーメストとメーカーそれぞれが持ち出しでやってる、という感じです。

1人で12キャラ使う『ストIIダッシュ』大会決勝

――ゲーメスト杯で、とくに思い出深い大会は?

猿渡:1992年にやった『ストIIダッシュ』大会ですね。とくに決勝ルールは今でも「よくできたルール」だと思っています。

――どんなルールで行ったんですか?

猿渡:決勝戦は両者に全キャラ使ってもらったんです。勝ち抜き戦方式で全12キャラ使用し、相手の全キャラを負かすことができれば優勝、というものです。ひとり12 on 12みたいな形ですかね。全キャラ満遍なくそこそこ使えるでもいいし、特定のキャラだけすごくやり込んでそれで相手12キャラ全員を負かしてもいい。どちらの方法で優勝したとしても、その人は紛れもなく『ストIIダッシュ』のチャンピオンだろう、と。

でもこのやり方で決勝戦をやったのは『ストIIダッシュ』だけでした。すごく時間がかかってしまって(苦笑)。でも対戦格闘ゲーム大会の黎明期で、よくぞこんな方法思いついたなと我ながら思いましたよ。やり方としては面白くて説得力のある方法だと思うんで、また機会があれば企画してみたいですけどね。

▲最後のゲーメスト杯『サイキックフォース2012』大会

あと1994年の『豪血寺一族2』大会も記憶に残っています。このときはゲーム大会以外にライブをやったり、いろいろ趣向を凝らした大会でした。

試合内容としては、1997年の『ヴァンパイアセイヴァー』大会決勝はよく覚えてます。ウメハラ選手とヌキ選手の同キャラ(ビシャモン)対決で白熱した試合でした。

1998年の『サイキックフォース2012』大会が最後のゲーメスト杯でした。1999年に新声社が破産してしまい、ゲーメストもなくなって大会もできなくなりました。個人的には『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』の大会ができなくなってしまったのが本当に心残りで……。

※後編では、2002年から2012年に開催された対戦格闘ゲーム大会"闘劇"のことを中心にお届けする。

インタビュー・構成:松井ムネタツ

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